『月刊NEXT』 No.49
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月刊NEXTPCApril,2011 www.fitnessjob.jp27間、このテーマパークでダンサーとして働く、大きなモチベーションとなったという。 「先ほども言いましたが、私はこのテーマパークに全く興味がなかったのですが、この環境にいることへの素晴らしさに早い段階で気付けましたので、オーディション参加を推してくれた先生、一年だけのはずだった上京を許してくれている両親には、感謝してもしきれない位の思いです」 トップダンサーとして踊り続けてきた彼女であったが、毎日の過酷なステージに身体が悲鳴を上げ、11年という彼女にとっては一歴史を作った頃、このテーマパークを退演することとなる。退演後は、独学で取得したアロマセラピーの資格を活かした会社に就職、しかし、トリートメントなどの現場を希望したにも関わらず配属は営業。希望しない仕事内容ではあったが、やると決めたらとことんやる性格の彼女は、営業成績もすぐさまトップクラスとなり、二ヶ月目にはエリアを統括するリーダーとなる。しかし、やはり望んだ内容の仕事ではなかったツケは、精神面への過負荷となり体調を崩し、一年ほどで退社することとなる。その後、心と体の調整が必要と感じ、フィットネスクラブに入会。毎日、汗を流しに通う中で、スタジオで行っているダンスクラスが気になり始める。 「私の中で、ダンスはステージで踊るものだというプライドがあり、一度辞めたダンスは絶対に振り返らないと、心に誓っていたんです」 しかし、どうしても気になり、「一回だけ」と決めて参加したクラスで、衝撃を受ける。 「それまでやっていたダンスとまるで 睡眠時間は多くても4、5時間だったというが、憧れの宝塚入団のためなら苦を苦とも思わなかったという。 しかし、現実はそんなに甘くはなかった。予備校では、「絶対に合格する」と太鼓判を捺され、首席で卒業してみせたが、その苦労が報われる事はなかった。宝塚音楽学校の入学試験に失敗したということは宝塚歌劇団への入団も潰えたということである。夢に破れた彼女はひとしきり泣き、どん底まで落ち込んだという。その挫折感たるや、本人にしか分からない相当なものであっただろうと想像できるが、そんな悲しみに打ちひしがれるている彼女を見かねた人物が手を差し伸べた。その人とは、当時通っていたダンススクールの先生だ。新たな目標ややりがいを見つける事で、今の現状を打破できるのではないかと思った先生は、前述した某有名テーマパークのダンサーオーディションへの参加を促したという。しかし、彼女はそれまで宝塚の舞台で踊る事以外考えた事がなかったため、テーマパークで踊るということは、屈辱以外の何もでもなかったという。しかし、長年お世話になった先生からの紹介を無碍に断る事もできず、渋々ながらオーディションを受け、結果、当然のように合格となる。その後、両親の反対を「一年だけ」という約束で押切り上京、ダンサーとしての生活が始まった。上京当初はこの仕事に戸惑いがあったというが、毎日数度のステージ本番ができることへの喜びと、このテーマパークに関わる全ての人のプロフェッショナリズムや、お互いを心からリスペクトし合うダンサー、キャスト全体の空気感、そして何よりも大勢の観客からもらう万雷の拍手は、彼女がこの後11年誰もが知っているであろう「宝塚」、そう、あの「宝塚歌劇団」の入団を目指していた。彼女曰く、『高校生の時は、生活すべてを宝塚に入るために捧げていた』という程だから、その熱の入れようは半端じゃない。 「宝塚歌劇団に入団する為には、宝塚音楽学校に入校しなければいけないんですね。でも、毎年50名程度の入校枠に対し2,000名ほどが受験をするんです」 なんと、倍率約40倍の狭き門である。彼女は夢である宝塚歌劇団入団を目指し、高校生活の全てを宝塚に捧げ、死に物狂いで毎日を過ごしていたという。 「受験すれば入校できるような通常の専門学校ではないので、高校に通いながら予備校に通う毎日でした」 予備校ではクラシックバレエ、日本舞踊、声楽などを中心に、未来の宝ジェンヌを目指す同輩と凌ぎを削っていたというが、彼女の凄いところはその予備校の学費の一部を、自ら稼いだお金で賄っていたという。 「両親には、やりたい事をやらせてもらっていましたから、せめて学費位は自分で何とかしなければいけないと思い、早朝5時から学校に行くまでの数時間、某大手ドーナツ屋さんでアルバイトをしていました」違いました。参加しているみなさんが笑顔で、上手い下手関係なく、とにかく自分のペースで踊る事を楽しんでいて、こんなダンスがあるんだと、目からうろこの気持ちになりました」 ここから、一気にフィットネスクラブでのダンスに取りつかれ、クラブを梯子してまでも、色んなインストラクターのクラスを受ける日々が続く。そんな中、あるクラブのマネージャーから、インストラクターとしての打診を受けた事をきっかけに、指導者としての人生が幕を開ける。宝塚音楽学校の受験に失敗してから13年目の第2の人生の始まりだ。インストラクターとして活動を始めると、ウェアメーカーやダンス専門誌などと契約が決まり、彼女を取り巻く環境が一変していく。 「長年ダンスをやってきた事が報われた瞬間でした。その中でも、伊藤由里子さんとの出会い、そしてBAILA BAILAというダンスプログラムを指導する機会をもらった事は、私にとってはかけがえのない財産です」 そのBAILA BAILAは、今ではトレーナーにアップデートをする立場にまでなっており、彼女のダンススキルの高さは業界でも一目置かれる存在となった。フィットネス業界というスペースで、存在感を大きくしつつある彼女だが、昨年10月、自らが経営するスタジオを都内にオープンした。このスタジオでは、主に子供たちにダンスやバレエを指導し、子供たちが日に日に成長していく姿を見ては、自分自身も頑張らなくてはというモチベーションになっているという。最後に、今後の活動について聞いてみた。 「インストラクターとしてはまだまだですので、もっと勉強して、発信力と行動力のある人間になり、この人からエネルギーをもらいたいと思われる存在になれれば嬉しいです!」 常に笑顔で、前向きな彼女。今後彼女が、今以上に人間的にもインストラクターとしても大きくなることに確信を持てたところで、今回の章を終りにしたいと思う。取材後記有限会社スポーツゲイト代表取締役社長有限会社スポーツゲイトホームページURL:http://www.sportsgate.co.jp個人BLOG:http://ameblo.jp/sportsgate2001/ 喋り出したら止まらないYOーKO(笑)。話が脱線しては戻るの繰り返しだったが、心底、「ダンス」が好き、「人」が好きなんだという事が分かる取材だった。とにかくこうと決めたら一直線!交通事故で肩を脱臼した状態でも、大好きなお客様に会う為に、レッスンを休んだりしない。 そんな向こう見ずなYOーKOを見かねたお客様が、「お願いだから病院に行きましょう」と 心配されるほどだ。これからは、時折立ち止まる余裕(勇気)を持ちつつも、その「想い」と「情熱」レベルを下げずに、前に前に進んで行って欲しいと思う。INTERVIEWER 丸山 寛このインタビューが動画でも楽しめます!PC/iPhone対応NEXTデジタルブックからご覧いただけます。今回のゲスト・本間友暁さんと丸山寛さんのインタビュー現場レポートとサイト限定のスピンオフトークを公開!誌面がもっと楽しめる内容満載です。iPhone

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