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  • 日本のフィットネスクラブ産業史

年表 産業史1(『クラブマネジメント誌』 通巻第33号記事から転載) 産業史2(『フィットネスビジネス誌』 通巻第5号記事から転載)

日本のフィットネスクラブ産業史(クラブマネジメント誌通巻33号記事より転載)

昨年、IHRSA(国際ヘルス・ラケット・スポーツクラブ協会)の機関誌『CBI』誌(2000年7月号)に、世界のトップ25位のランキングが発表された。その売上部門では、日本企業が特に目を惹いた。トップ10社の中に4社が含まれていたのだ。日本の物価の高さや換算レートの問題で数値がやや高めに出るため相対的に高順位になることを考慮したとしても、成長の跡が見てとれる。特筆すべきは、この4社を中心にした日本の先行クラブがバブル崩壊後の長引く不況の中でも確実に売り上げを伸ばしてきたことである。現在、この4社を含むトップ10社の売上高の合計は、日本における業界総売上高の半分以上を占めるまでになっている。そこで、本稿では日本のフィットネスクラブ産業が、このランキングに入っている先行4社を中心にどのような発展経路を辿って成長してきたのか、また今、市場でどんなことがおこり、これからどうなろうとしているのかといったことなどをまとめてみることにした。

日本のフィットネスクラブの嚆矢は1964年の東京オリンピック後に全国各地でスイミングを愛する選手や指導者らによって個別に行われるようになった「スイミング指導」に求めることができる。現在国内最大手のピープルや、二番手のセントラルスポーツ株式会社(以下、セントラルスポーツという)をはじめ、多くの企業がスイミングスクールから事業をスタートさせている。
今から30年前、'69年にまずセントラルスポーツが「子どもたちに水泳を教えて将来の金メダリストをつくる」という後藤忠治氏(現セントラルスポーツ株式会社代表取締役社長)の志のもと設立された。はじめは学校のプールの空き時間を利用して、周辺に住む生徒を集め、後藤氏の母校の水泳部に指導者を募ってのスタートだった。
当時日本は「水泳大国」と呼ばれ、世界的にも互角に戦える水泳選手を数多く輩出していた。これが戦後の厳しい生活を送る人々に活力を与え、国民からの高い関心を集めていた。このこともあり、各スイミングスクールが多くの生徒を集め始めた。セントラルスポーツはその中で運営受託という方式を案出し、運営施設を増やして行った。
'71年にはダイエーレジャーランド(ダイエーオリンピックスポーツクラブの前身)が、'73年にはNASが、続いて'74年にピープルがスイミングスクール1号店をオープンし、'76年にはセントラルスポーツも自社所有のスイミングスクール施設を開設、これらの先行企業を中心にスイミングスクール業界は急速に拡大していくことになる。その後も好景気とともに、激化する受験戦争に向けて進学前の子どもたちの体力づくりとして、また日本では学校の授業に体育があり、その中で水泳が取り入れられていたこともあって、親の関心が高まり、50%以上の子どもが一度はスイミングスクールに通うほどにまでなっていった。
このスイミングスクール人気と時を同じくして、日本には一連のスポーツブームが起こっていた。多くは米国の文化に習ったものであり、ジョギングブーム、ジャズダンスブーム、テニスブームと続いた。ルネサンスはこの時期('79年)テニススクールとして事業をスタートさせている。'81年にはケネス・クーパー氏が来日、"エアロビクス"の言葉が広がり、'82年に原宿にスタジオNAFAが出来たことを機に若い女性を中心にエアロビクス(ダンス)ブームが起こった。米国のフィットネスはこのように部分的に日本に持ち込まれていった。
これらをひとつのクラブとして統合し、日本で初めて「フィットネスクラブ」の名を冠して開業したのが'83年セントラルスポーツの「ウィルセントラルフィットネスクラブ新橋」であった。また、同年、ピープルも「エグザス」ブランドで、スタジオ・ジムタイプのクラブを東京青山にオープンさせている。このとき「入会金1万円、月会費1万円、利用料なし」という現在のクラブの料金システムの原型がつくられた。
'80年代後半に入ると、日本経済は「バブル」の兆候を見せ始めた。'80年代最後の3年間には年間200店を超えるクラブがオープンし、フィットネス業界最大の成長期を迎えた。これにはクラブ経営企業側の出店意欲の高さのみならず、土地を提供するオーナー側の事情も強く影響していた。土地オーナーにとって、バブル期は土地の評価額も高く固定資産税や相続税も高くなるためそれらを低減させようと、積極的に資金を借入れクラブ等の施設開発を進めていった。また資産を増やしながらも会社全体としての毎年の所得税を低減させようと他事業との損益通算処理が行える不動産賃貸業として、クラブ等の大型賃貸施設の建設を積極的に進めていった。加えて、こうした動きを金融機関が強く後押ししたということも大きな背景要因のひとつとしてあった。当時は、スイミングスクールは少子化の流れを受けはじめていた時期でもあった。そのためスイミングスクール業界で先行していた大手3社の、セントラルスポーツ、ピープル、NASは、既存のスイミングプールに、ジムとスタジオを増設するなどして、成人も集客できる総合フィットネスクラブへと積極的に業態転換を図っていった。また、この頃業界の成長度と健康的なイメージの良さから異業種の大手企業の参入も加速した。いちはやく参入したのが洋酒メーカーのサントリー(ティップネス)であり、'87年のことであった。翌年の'88年には業界全体で年間最高の新規開設施設数、224軒を記録している。
しかし、この時期の積極策がその後裏目に出る結果となった企業も多い。これは、この時期の建築費と金利の高さ、クラブの開発手法、契約形態などに起因していた。'80年代後半のバブル期の建築費は坪あたり80〜150万円と現在の約1.5〜3倍であった。加えて当時の金利は4〜8%の高水準である。土地の高さもあいまって、これらがストレートに家賃に反映していた。さらに当時は建築費の大半(スケルトン部分)を建築協力金(保証金)として差し入れた上、内装や設備までクラブ経営企業側が持ち込むという契約がとられたりもしていた。また日本ではプールがないと極端に集客が悪くなることからプール設置が必須であったことなどからも高コストの経営構造を招くことになった。さらに、入会金、月会費等を極端に高くするクラブもあり、それらを景気後退傾向が見えはじめてからもなかなか変えようとしなかったことも経営悪化の一因となった。ダメを押したのが、バブル経済崩壊であった。それによる深刻な景気低迷で一般消費者の財布の紐が固くなり、各クラブは入会者を減らし収入も縮小均衡となっていったため、収・支、双方が悪化し、大きく経営のバランスを崩すことになってしまったのである。だが、そうした傾向を敏感に読み取り、いち早く低成長、低消費の時代にマッチしたクラブ開発・運営手法をとる企業も現れていた。ディックルネサンスがその企業である。ルネサンスがとった手法は、建築費を設備・内装込みで坪50万円程度にできる設計プランを自身で用意し、建築費の支払いをすべてオーナー側に任せた上で、オーナー総投資額の1%相当分の月額家賃を支払い、さらに入居前に保証金としてこの家賃の10〜20ヶ月分を支払うというものであった。それまでの多くのクラブ経営企業の開発形態と比べると、ぐんと負担の軽い「ローコスト経営」ができることになった。そしてこの手法に他企業も学び、この時期以降は、ほぼすべてのクラブがこの方法を採用することになる。
だが、バブル経済崩壊後の、消費の冷え込み、入会者減は業界各社の予想を超えるものであった。すべてのクラブが生き残りをかけて乾いた雑巾を絞るようにコスト削減に取り組むとともに、入会者を増やすための営業とプロモーションを強化した。日本のクラブにとって主要なコストは3つであり、人件費(売上高比27%)、家賃(20%)、水道光熱費(13%)で約6割を占めていた。家賃の引き下げ交渉には時間がかかるため、即効性のある人件費と水道光熱費が大胆に削られていくこととなる。社員をパート・アルバイトスタッフに変え、水道光熱費を削減する様々な取り組みが進められた。売り上げを高めるプロモーション手法としては入会金を割り引くという手法が一気に広がった。米国では好ましくないビジネスプラクティスとされていることを知っていながら、大手を中心にほとんどすべてのクラブが入会金の割引に手を染めていった。割引率はついには100%に達し、それが常態化し、入会金はもはや形だけのものとなっていった。退会率も徐々に高まっていった。しかし、消費が一層低迷する中、入会金オフをしないと「新規入会がとれない、それは赤字転落を意味する」との焦りがそういう状況を生んだともいえる。
そんな中、ピープルが月会費の見直しに着手した。それまで一律だった月会費を主に施設規模に合わせて見直した。元々クラブ経営の要諦は、立地・施設・料金の主要3要素を地域の顧客ニーズに合致させることにある。それを同社は精緻に整えたのだった。価格改定は同社の全店に及んだ。老朽、小型の既存店を業態転換することにより収益性を回復する策も図られた。'94年に行った「セレ」ブランドでのリニューアルオープンは、そうした同社の施策を象徴するものであった。同社は、ジム・スタジオタイプの小規模クラブを月会費4,000円というそれまでの業界平均の半額で売り出したのである。これは需要を喚起した。そして業界関係者の間でも脚光を浴びた。さらにピープルは、ナイト会員、アクア会員、モーニング会員、ホリデイ会員、アフタヌーン会員など、時間軸や空間軸で制限をもたせた会員種別をレギュラー会員の6〜7割程度の価格で発売した。すると施設稼働率の悪い時間帯・空間が改善された。会員数が1,000名以上増加するケースが続出、クラブによっては一気に会員数が2〜3倍に達した。同手法では、客単価が下がるものの総売上高が高まり、経常利益も高まった。また営業時間を延長させたこともあってさらに施設稼働率が高まりROIも高まっていった。さらに同社は、積極的にグループエクササイズを拡充させていった。これも大きな成長要因となった。そうした様々なマーケティング策にセントラルスポーツを含む大手企業は学び、すぐに追随していった。しかし、変化対応しにくい独立系のクラブはなかなか同様の手法をとらず手をこまねいていた。そして徐々に経営を悪化させていった。そうしたクラブを先の手法で水を得た大手企業らが肩代わりし施設をリニューアルして経営を再建していった。こうして、フィットネス業界大手企業は日本の長期にわたる不況にもかかわらず、業績を伸ばすことに成功してきている。結果、現在の日本の市場は2極化してきている。
フィットネスをさらに広い消費者層にマーケティングしていこうとする業態開発も大手企業を中心に積極的に行われ始めている。'96年にはピープルが温浴施設を付帯させた「フライツァイト」を展開し始め、'97年にはルネサンスが「クランチ」と提携してプールが無い都市型の施設展開に取り組みはじめた(同施設は途中で提携を解消した後、家主の倒産により2001年1月に閉店)。そして'99年にはセントラルスポーツが温浴施設とスパ、子供向け施設を付帯し、心身両方の健康づくりを目指した「セントラルウェルネスクラブ」を開設した。
'99年には、それまで下降傾向にあった客単価を引き上げようとの動きが見え始める。特に比較的安価であった時間軸・空間軸で制限を持たせた会員種別の料金を若干値上げしたり、有料プログラムや飲料の販売など付帯収入を高める動きが見えた。
それとともに、その後の大きな動きを予感させる出来事が起こった。財務体質の悪化に苦しんでいたNASがシュローダーベンチャーズなどベンチャーキャピタル2社の支援を受け、傘下に入ることになったのである。
2000年から2001年への世紀の変わり目には、やはり大きな動きが起こった。業界再編の始まりと新たな成長を感じさせる出来事が立て続けに起こった。2000年11月のセントラルスポーツの株式公開、同年12月のディックルネサンスとトリムの合併、2001年3月のササダ・ファンドによるNAS買収、2001年4月のティップネスとレヴァンの合併、さらに2月には、ピープルの資本主体がマイカルからゲームソフト大手のコナミに変わったことなどである。
2000年度、先行各社の既存店の売り上げは、それまでの5年間ほどの伸びを示さないものと思われる。ここから大きな成長を遂げるためには、規模に加えてイノベーティブなアイデアが必要になってくる。それは従来の延長線上の発想からは出てきにくいだろう。そういう意味では合併や提携などにより異なる者とのハイブリット化をうまくなしとげた企業が、マーケットをさらに大きくしていく可能性が大きいと思われる。
欧米に比べてまだまだ日本のフィットネス参加率は低い。成長の余地は十分にある。アイデアを出す力と実行力の2つを備えた企業が今後の日本のフィットネスクラブ産業を牽引していくことになるだろう。

※この後、本誌では大手6社(ピープル、セントラルスポーツ、ティップネス、ディックルネサンス、ダイエーオリンピックスポーツクラブ、日本体育施設運営)の設立からのプロフィールと続きますが、こちらについては本誌をご購読ください。